松本先生は一度家業を継ぐために歯科医を目指したが、膝の手術を経験した中学時代から憧れた医者の道を諦めきれず、弘前大学医学部に入り直すという経歴をもつ。医学部生時代は雪国で急に目覚めたスキーに熱をあげる。スキー場で泊まり込みバイトを毎年繰り返し、そのおかげで在学中にスキー指導資格を得るまで腕前をあげた。医学部の勉強はおろそかにすることもなく、スキーでの泊まり込みバイトを前提とした段取りには余念がなかった。仲間には「試験で『滑らないために』スキーで滑っている」と嘯(うそぶ)いては笑いを誘っていた。
そんなユーモア溢れる松本先生に救急を志すようになった理由などをうかがった。
松本 悠(はるか)先生プロフィール
- 1988年生まれ
- 都内の高校を卒業後、東北大学歯学部歯学科を経て弘前大学医学部に入学
- 2015年 同大同学部卒業
初めての当直で救急の面白さに気がつく

松本先生は初期臨床研修を受けて、救急医を目指すようになったという。研修を受けるまでは、全く救急は眼中になかった。そんな松本先生が救急医になろうとしたのは、どうしてなのだろうか?
「アドレナリンが出る感じが面白いので」とざっくりと理由を語る。
医者になって初めての当直で、札幌厚生病院での初期臨床研修に入って直後の出来事。そこに出血性ショックの急患が運ばれてきた。自分では一切、何をやっていいのかもわからず、ただただ治療を見守るしかすべがなかった。ただそれだけなのに、ワクワクドキドキ感がものすごかったという。こうした感情に「面白いかも」と松本先生は俄然、救急に興味を抱いた。
そのきっかけを作った救急患者は今にして思えば、それほど重症ではなかった。鼻の中の動脈を何かの拍子で傷つけてしまったらしく、自分で何とかなるだろうと自宅で自己治療を試みているうちに出血性ショックに陥って救急搬送されて来たのだった。今だったら「何をどう治療していいのかわかるけど」と松本先生は笑う。
救急の研修で北大を選んだ理由は単純明快で、札幌厚生病院と太いパイプで結ばれていたからというのだ。
「もし北大ではなかったら、関連の帯広厚生病院の救命救急センターでしたね」と松本先生は答える。
救急は課題が毎日山積みで、それだけ吸収も多く早い
救急の研修で知り得た知識や経験を伺うと「死にそうな外傷とか、高所からの墜落を初めて見たので、それは大きな経験ですかね」と松本先生は話し始めた。そして知識としては、スワン・ガンツカテーテルが勉強になったと付け加える。首の静脈からカテーテルを挿入していき、心臓を通して肺動脈に先端を置くという手技と、そこから得られるモニタリングのことだが、これ以外にも自分の覚えていた手技が全部、早くなったと手応えを感じている。
手応えは3次救急という一刻も早く治療をしなければならない環境から来ているのかもしれない。点滴を取るにしても、中心静脈をとるにしても「圧倒的に早くなりました。もちろん上級の先生には速さではかないませんけど」と松本先生は話す。
また自分で考えながら治療を進められるようにもなって来たという。救急に来るまでは、一般病棟の外来、入院患者を診て来たが、それはほぼルーチン化されていた。つまり腸閉塞の患者さんだろうが心筋梗塞の患者さんだろうが、治療方法は確立されているために型通りの治療で、ほぼ十分に対応できるというのだ。しかし救急はそういうわけにはいかない。
「救急やICUの患者さんは一つの型にはまらないんですよね。悪いところが一箇所ではないので、この型とこの型を組み合わせて治療を試みるとか、色々と考えなければならない」と松本先生。
「でも」と松本先生は付け加えてこう話す。「考えて自分の意見を言えば、いろいろなことをやらせてもらえます。ただカンファレンスで上級医が話したことだけをやっているだけだと『こいつ考えていないな』という感じにもなりますからね。プレゼンテーションも自分でも上手くなったと思います。毎日、やらされていますからね」
松本先生は救急の研修をこの二年間の初期臨床研修の中でも一番濃かったと振りかえる。
救急では、とりあえずやらなければならないことが山積している。もちろん、他の先生ならば瞬時にできることでも、松本先生には一から調べないとわからないことだらけ。薬のオーダーを出すにしても、まずは調べてから用量を決める。松本先生は「自分のペースが遅いとは思わないのですけど、いろいろやるべきことが多いので気がつくと1日が終わっています」と真顔だ。
救急医を目指すも、あくまでもシフト制職場にこだわる
松本先生は今春(2017年4月)から札幌東徳洲会病院で救急医として歩み始める。札幌東徳洲会病院にした理由は大きく分けて3つだという。「シフト制であることと、育休を取らせてもらえるので」と松本先生は話す。そして3つ目は、同病院で3年間勤め上げた後、武者修行、つまり救急医学をさらに極めるために他病院への研修に出ても構わないという話もあったからだという。
中でも松本先生は職場探しで最も重要にしているのはシフト制。「僕は医者です。医者として頑張りますが、人生を医者に注ぐのではなく、もっと別なところに置きたいと思っています。そのためにもちゃんとしたオフが欲しいのです」
また、東徳洲会の救急対応は2次だが、中には3次の患者も紛れていて、それを見抜く力が必要とされる。「僕は救急病院でないところで研修をしているので、いきなり3次に行くのではなく、東徳洲会のように幅広く最初の一年は診てみたいなと思っています」と松本先生。
喜びに満ちた従命二話
印象に残る症例、エピソードを質問すると松本先生は開口一番「ドクターヘリで来た患者さんなんですよ」と話し始める。初めて主治医を任された患者さんでもある。ドクターヘリで北大病院に急送されて来た60歳代の男性。
松本先生は「正直、この人は助からない」と初療の時に思ったという。上級の先生の雰囲気もいつもと違っており、初期対応も松本先生に委ねられたからそう思ったのかもしれない。スワン・ガンツカテーテルで患者の容態の確認をしながら、手術に必要な処置を色々やらせてもらったという。
手術は無事に終わったが、その夜は、当直で一睡もできずに朝を迎えた。2時間おきに採血の検査、薬の調整、人工呼吸器の様子など注意深く術後管理を怠ることはなかった。
患者の生命力の強さと真摯な治療によって翌日に意識が戻り、名前をたずねると患者はコクリと頷いた。従命が取れた瞬間、松本先生は「助かった」とすごく喜んだ。
救急の研修で2ヶ月余りいた経験の中で「一番、思い出のある患者さんです。長い間、ずっと患者につきっきりでしたからね」と松本先生は目尻を下げた。
そしてその直後「もう一人いいですか?」ともう一人の思い出深い患者の話をし始めた。正確には患者そのものよりも、どちらかというと患者家族とのコミュニケーションだ。
中国から札幌に遊びに来ていた親子で、救急搬送されて来たのはその母親。日本語が話せなくて病院に行くのを我慢しているうちに、尿路感染症が重症化してしまい救急搬送されて来たのだという。その母親とは最後までは意思疎通を図ることはできなかったが、息子は英語が少し話せたので、コミュニケーションを取り合えていた。息子さんと仲良くなれていたおかげで、日本での入院生活には不安を抱かせることもなかった。
患者の予後は良好で、いよいよ退院を迎える日が近くなった時、松本先生は患者さんともなんとかコミュニケーションを取ろうと思い立った。息子を通じて通訳してもらった従命は取れていたが、直接のやり取りではまだなかったからだ。息子さんに中国語で「おはよう」を何というのかを習い「明日の朝、おはようと言ったらお母さんに頷いて欲しい」と頼んだ。
翌朝、松本先生は病室に入っていき「早上好(ザオ・シャン・ハオ)」と中国語で話しかけると母親は笑顔で頷いた。
「この時も嬉しかったですね。この二人の患者が僕の中では(印象に残る)二大巨頭です」と松本先生は笑みをこぼした。
中学校時代の膝手術で医師の道を志してから、分からない時には分からないと言える医者を目指す
松本先生は高校を卒業して一浪の後、一度東北大学の歯学部に入学している。本当は医学部に行きたかったのだが、センター試験の結果が「微妙」で医学部を安心して受けられる点数ではなかったのだという。そこで実家の歯科医院を継ごうかなと思い、歯学部を受験した。
ところが歯学部に入ってみると「違うな、ここは」と思い悩み、再度医学部を目指すことにしたのだという。
親からは「アホ」と言われたが、この言葉をバネに翌年、弘前大学医学部に無事に合格を果たした。そこまで医者の道にこだわったのは、中学時代の膝の手術だったというのだ。
離断性骨軟骨炎。2ヶ月の入院を要した。最も当初はリハビリの専門医というよりは、作業療法士、理学療法士への憧れを抱いていたという。松本先生は「リハビリの先生になりたい」と親に話すと「リハビリの先生は、あなたの膝のためにすごくよくしていてくれるけど、手術したのはリハビリの先生ではなくて、その時の主治医の先生なんだよ」と指摘されて「ああ、そうなんだ」と思い直して医者になろうと決めた。
膝の手術に至るまで、松本先生は病院をたらい回しにされた経験をする。最初は膝が痛いということで街中の整形外科とか総合病院を受診していた。中には「肉離れ」だという先生や「手術をして内視鏡で(患部の)様子を見てみよう」という先生もおり、誰も適切な診断をつけてくれなかった。最後は東京医科歯科大学で受診して、ようやく疾患名が分かったのだが、同病院で手術するのも「僕で2例目だったんですよ」(松本先生)というほどの稀有な症例だった。
松本先生は「なので僕は医者を志した時から、分からなかったら分からないと言える医者になりたいと思っています」と語気に力を込めて話した。