北海道大学病院 救急科 | 北海道大学 大学院医学研究科 侵襲制御医学講座 救急医学分野

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[第14回]在原房子先生

在原房子先生プロフィール

  • 1989年 札幌市生まれ
  • 札幌北高卒業後、北海道大学医学部入学
  • 2014年3月 同大同学部卒業

0.1点の差でラッキーにも追加合格で医者の道へ

在原先生の写真

救急の研修を2014年12月から3ヶ月の日程で受けた在原先生は開口一番、「楽しかった」とふり返る。
「私、一年目で大学の内科を中心に回ってきました。やっぱり大学病院の内科だとあんまり手技も多くないし、患者さんの入れ替わりが多い訳ではないですし、いろいろなことができるというと、やっぱり楽しい部分の一つではありますね」
一方で患者とのコミュニケーションが取れない辛さも感じたという。
北海道大学病院の救急は、3次指定なために意識のない重症患者が多数を占める。外来死亡の患者も多く、初期治療が上手くいったとしても会話が困難な時期が長い患者も多い。
「それもあるけど、患者さんとお話するのが好きなので、何考えているのかなとか調子どうなのかなと、なかなかご本人から窺えないことが多いので、そういう部分では物足りなさというか、悲しいな」と在原先生は感じることもしばしばあった。

そんな在原先生は、医学部受験では針の穴を通すがごとく幸運を勝ち得て医の道を進んでいるのだった。
どういうことなのか?
実は在原先生は、現役時代には後期日程の北海道大学の医学部を目指したが、掲示板には自分の受験番号が無かった。札幌医科大学も前期日程で受験していたがそれも希望が叶わなかった。
しかし、幸運は何の前触れも無く訪れるのが世の常のような出来事がおきた。受験に失敗して愕然として予備校への入学準備も整え、3月も終わろうとしていた早朝8時すぎ、枕元に置いてあった携帯電話が鳴った。寝ぼけ眼で電話を取ると、見覚えの無い着信番号。いぶかし気にボタンを押して会話を試みると、北海道大学からだという。電話の内容は、追加合格の知らせるものだった。「ついては書類を受け取りに来て欲しい」と電話口で伝えられたのだった。
半信半疑で喜んでいいのか戸惑ったという在原先生は「新手の詐欺かもしれない。合格したとみせかけて入学金を騙し取ろうとしているのでは?」
家族全員が即座に信じられなかったことに無理も無い。このようなことは人生でそう滅多に起きることではないのだから。
それでも念のためにと、姉に付き添ってもらって北大に足を運ぶと、電話での話は本当で、入学を認められていたことが確認できた。
あとで在原先生は開示請求すると0.1点差で最初は不合格となっていたことを知った。
「本当にそれだけの差で落ちていたんですね」と笑う。
もし、その0.1点差で当初合格していた受験生が、北大を辞退していなかったら、在原先生の人生は、今よりも違った人生を歩んでいたのかもしれない。そう思うと、在原先生は超がつくほどの幸運をとりあえず手にしたことになるので、人生とは何が起こるか分からないので面白い。

在原先生は入学式でも「何で私がここにいるのだろうか?本当にいてもいいの?」と、まだ不思議さを感じていたという。
大学では6年間、高校時代から続けていた硬式テニス部に入り、3年生の秋には主将を務めるほどクラブ内での信頼も厚く、活動に打ち込んでいたという。
もっとも打ち込みすぎたせいもあり、研修先の病院への「就活」はさほど熱心にするができず、出身大学ということで間口も広い北大病院で研修を積むことになったという。

研修で書き続けた救急搬送患者の症例メモ

印象に残った症例を訊ねると、在原先生はちょっと困った様子で「きっとそのことを聞かれるだろうなと、ずっと考えていたんです」と話し始めた。
「印象に残った症例か…。難しいですよね」と言葉を発しながら、すぐに言葉を紡ぎはじめた。
「ひとつの症例という訳ではないのですけど、私が来てからの3ヶ月の間で自分でみた救急搬送の症例を全部メモしているんですよ。どんな人が来て、一日何台(救急車が)来たかとか。亡くなった方とか、元気になって帰った方とかつけていったんです」と在原先生。
メモを取ろうと思った動機を在原先生はこう語る。
「そうですね。どんな方が来るのか、なんとなくどれくらいの症例が見られるのかなと思って」
カウントの中には、3次救急搬送に至らない2次搬送例やDr.カーで出動した例も含まれているという。
「とにかく自分で見た(経験した)例だけをメモしました」という在原先生は、本インタビューをきっかけに患者数をまとめてみると約100件に及んだという(取材時点で2ヵ月半の研修期間が経過していた)。
そしてそのうちの半数以上の患者が亡くなっているという現実に改めて気がついた。出勤しているだけの日数で単純計算をすると、在原先生は勤務ごとに、死と毎回向き合っているのだった。
短い研修期間中に「こんなに人の死を見たんだ」と在原先生は振り返りながら、人の死に慣れていく自分自身を少し恐れたという。
亡くなられた患者の採血などは研修医の仕事で、死者と一緒に過ごす時間はどうしても長くなる。だんだんと死に対して何も思わなくなる自分を感じる一方で、遺族が死を悲しんでいる姿を見るたびに「死への慣れ」に至っていない自分にも気がつき、毎回、そのシーンを眺めるたびに悲しむという。
在原先生は「これまで生きてきて、色んな人と関わってきた人だったんだなと思うと、ジーンときます」。
救急で数多くの死を見たが、在原先生の「死生観」は特に大きく変わったということもないそうだ。

自身で考え、治療・診断のアセスメントをきちんしようと思った専門医のひとこと

救急医でクラブ活動の先輩にもあたる医師が職場にいたため、研修が始まってからよく話しをする機会に恵まれた。何か分からないことがあれば、率直に聞いていたつもりだった。特にどうすればいいかを自分で調べるわけでもなく、聞いていたのだと言う。何でも聞いたら答えてくれる良い先生。
ある日、いつもと同じように判らないことがあったので、その医師に質問すると、いつもの「答え」ではなく、別の言葉が返って来た。
「お前はいい家庭で守られて育ってきたんだろう」
在原先生は一瞬、はっとした。そして、その言葉が悔しくて堪らなかった。
何でも求めるもの(答え)を与えてくれるお嬢様と見られていたことに気がついたのだった。
「ショックでした。何も否定できない自分がいて…」と在原先生は話す。
そして自分で考えたり、調べたりもせずに聞いていた自分に気がつかされて、恥ずかしくなったという。
研修中の3ヶ月間で「どうにか自分一人でできるようになってやろう」という気持ちが在原先生に芽生えた。
「これやっていいですかとか、あれやっていいですかっていう報告はすごく大事だと思うんですけど、私のって何も考えないで、こうこうこうだからやった方がいいとか、『アセスメント』がなく聞いちゃっていることがすごく多かったです。それで先生にいいよと言われてその場でできたとしても、違う症例になった時に同じ判断ができるかと。そうしたらまた上の先生に聞いちゃうなって、なるべく自分で考えてから行動するようにしようと思いましたね」
そのために「あまり好きではない」という医学の勉強をするように努力するようになったという。
これまでの他科での研修ではあまり、自分で考えて行動することをしなくても済んでいたという。これまでにも多くの研修医がそのことを口にする。
他科のシステムがどうのということではなく、救急での研修は自分で考え自分で調べて判断するというトレーニングが徹底されているのかもしれない。

意思伝達のためにコミュニケーションを大事に

これから続く研修医へのメッセージとして、在原先生はこう話す。
「自分が今、何をしているんだとか、どうしようと思うとか、周りの人が何をしているのかとか、というのは知識がなくても発信したり聞いたりできることだと思います。
救急って、他の科よりコミュニケーションが大事だなと思って。看護師さんとかの話しを聞いていると、特に思います。患者さんを引き上げさせたばっかりなのに、医者が『処置するから』とやってくると、元に戻さなければならないので、看護師さんたちは怒っちゃっているんですけど。だから、『今、いいですか』と言うようにしているんです。そうすると、すごくありがたられるんですよ。普段の仕事なんかもやりやすくなってきます」
在原先生自身は、すごい技術や知識があるわけではまだない。「でもコミュニケーションは誰にでもできることだし、それをやろうかなと。みんなが気持ちよく動けるように気をつけてやろうと思っています」
この3ヶ月の研修はどこにいっても「役に立つ」という在原先生は、特に「度胸が座わったのかもしれない」と話す。
「今まで、何でも焦っていたんですけど、焦るべきことに焦ったらいいと思うんですけど、焦らなくていいところでは、焦らなくていいと思いました。でもまだまだ、びびっていますけど」と在原先生は目を細めながら笑った。

最後に在原先生は「当直時などに家族が運ばれて来たらいやだなあ」と考えていたことを打ち明けてくれた。それは医者がいない、途中下車のできない移動交通手段の中で急患が発生した時にどう対処できるかなどを聞いた文脈の中での答えだったのだが、いろいろイメージをしている中での一つのシーンだったそうだ。

今後の医者として町医者のような進路を考えているようだが、まだそれも定まっていないという。
当面は今春4月から、岩見沢市立病院に異動して残り一年間の初期臨床研修を全うすることになっている。