北海道大学病院 救命救急センター | 北海道大学大学院医学研究院 侵襲制御医学分野 救急医学教室

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研修医インタビュー [第9回]平井公也先生

平井公也先生プロフィール

  • 1985年 兵庫県丹波市生まれ
  • 三田学園高校卒業後、札幌医大医学部入学
  • 2013年3月 同大学卒業

漠然とはしていたけど、やりがいのある仕事と思い医者の道へ

平井先生の写真

平井先生は兵庫県の山の中で生まれ育ち、地元近くの高校に進学した。高校時代はサッカーに打ち込むなどしていたが、特にはっきりした進路希望がなかったという。
「もともと医学部を目指していたわけではなく、特にやりたいなと思ったものがなかった」と平井先生は受験時代を振り返る。
そのためか勉強にも集中力を欠いていたという。親類に医者関係がいたわけでもなく、「何にでもなれる状況ではあったけど、特に頑張ろうという気持ちはなかった」と平井先生。そのため何となく医学部を受験していたものの、2年続けて不合格という憂い目にあった。
特に医者になろうとした動機づけられたきっかけはなかったものの、3浪目には「さすがにちゃんと医者になりたいという気持ちが強くなりました。しっかり自分がしなくては」と猛勉強を開始。
「命に関わることを自分ができるようになるのは、逆の立場で診てもらうって考えると、すごくありがたいことで、すごいなあと思いました。そういう立場に立てる医者に自分がなれればいいなと思った」と平井先生はその当時の気持ちを振り返る。
そして三浪の末に札幌医大に無事に合格した。
しかし、そのような思いとは裏腹に大学入学後は医学よりもサッカーに集中してしまったという。サッカー部に入部して1年から5年生まで部活動で汗を流す日々。右サイドバックでリーグ戦を戦かったり、東日本医科学生総合体育大会で準優勝したりしたこともあった。
「だからこの時期、勉強をほとんどしていなかったですね~」と笑う。
とはいうものの、親からは「大学に入ってからの留年だけはやめてほしい」と釘をさされていたために、それだけは避けようと試験時期だけは本人も必死になれたという。
医師国家試験も一発でクリアして無事に卒業、NTT札幌病院に入り、初期臨床研修医として医者としてスタートを切った。

救急ができないコンプレックスから北大病院の門を叩く

1年目は所属先の消化器内科、麻酔科、呼吸器内科、精神科、産婦人科のほか、中村記念病院でひと月、救急の研修を積み重ねてきた。
麻酔科で研修を積んでいた時に「ふと本格的な救急を診られていないのが、(医者としての)ちょっとしたコンプレックス」を感じたというのだ。
平井先生は「NTT病院には救急もなく、初期対応が診られないというのがあったので」と、北大で3次の救急を学びたいと思いついたと話す。
「一般的な、基本的な全身管理を医者としてできないというのではダメじゃないかと。このままでは全身管理ができる医者になれない」と平井先生は救急での研修に魅力を感じたのだという。
しかも北大の救急はICUも受け持つ。
「ICUもあるので、ここで学んだことは大きい」と話す一方で、「全身管理の難しさと自分の知識のなさを思い知らされました」と思い返す。
病態や治療法、診断法など、知れば知るほど、『知らない』ことが増えていったそうだ。
平井先生は「研修は大変でした。だけど大変だからこそ、勉強していかなければならないと思い、前に進めました。一個一個、問題をつぶしていくしかなかったので」と話す。
分かっていなければ自分が困る以上に、患者が困る。そのためにステップアップしていくために、学ぶべきことの大切さを感じたという。
また正直にも「楽しかったかと聞かれると、??という気持ちもあります。分からないことだらけで、自分の力なさも痛感しました。辛い思いも多い。でもその分、勉強になったと実感できる部分もあったし、それだけに自分に自信もつきますしね」と苦笑いする。

北大の救急で学んだことは多い。
特に「着眼点」とあげる。一つの病態をみるために、どういったところを観ていかなければならないのか。
例えばICUでの患者管理を例にあげる。
「患者さんの循環血液量が足りているのかどうかは、何を見て評価していいのか。自分は一つ二つのパラメータをみて評価してしまうことが多いけど、(指導医の)先生たちは『そうじゃないでしょ。何でだめなのか』とくる。自分が(医者として)うすっぺらいと思ったけど、少しずつではあるけど、トータルに見られるようにもなってきた」と平井先生。
これまでの研修では研修医はある意味、責任を持たされることはなかった。「良い意味でも悪い意味でも、守られていましたから」。
しかし救急ではこれまでの研修先とは違い、「自分が前に前にと診ていかなければならなかった。プレッシャーは無かったけど、自分が担当なので、自分が止まってしまったら物事が進まなくなるということは感じていました」。
しかし、これこそが「自分が思い描いていた医者の姿」でしたと微笑む。
そして救急では「考える楽しみとか、手技的なこととかが僕は好きでした」と平井先生は話す。

初期対応の重要性を学んだ症例

研修に入って一週間あたり。明け方に50歳代の男性が、交通事故による多発外傷で、ショック状態で運ばれてきたという。橋の欄干に車がぶつかって、運ばれてきた時には大量に血が吹き出している状態だったが、心停止には至っていなかった。
輸血が必要な状態だったが、初めてこのような患者と接するために「輸血の仕方とか、輸血も何をいれるとかも分からないし。出血しているので赤血球RCCとかいれればいいんじゃないかと短絡的に思っていた。もっと違うFFPとかをがんがんいれていたりしていた。その時は何も感じずに診ていたのですけど。あとで勉強をしていくうちに、そういう意図で行っていたのかがわかりました。初期対応の判断が早かった。あとあと、先生がさっきの症例についておさらいしてみるかという感じで、教えてもらった。それで救急の初期対応によって、複雑な状態に患者がならずに、シンプルな状態でよくなっていく。ICUには一週間ほど弱で今、リハビリしています」と話す。
知識ではなんとなく分かったつもりでいたが、実際の症例と教科書とは違うことを感じたという。

産婦人科をめざしていたけど、今は救急への憧れが

学生時代に平井先生は小児科と産婦人科は「自分には絶対にない」と思っていたというところが、大学5年の時に、一年間をかけていろいろな科を回る実習があった。たまたま大学病院でありながら自然分娩があり、「あ、これはいいな」と感じ、産婦人科医になろうと思い立ったという。
NTT病院を選んだのも産婦人科が有名で、そこに尊敬できる先生もいた。その医師から「だったらここにおいで」と誘いを受けたことが大きな決め手となったという。
「ところが」と平井先生は口を開く。
「今難しいところで、実際に救急の直前に産婦人科で研修を受けていたら、自分が思っていたよりも産科に興味がないことに気づいた。なので、将来の進路として産婦人科というのは、今、?という気持ちです」と言葉を続ける。そして?の裏側には「救急もやりたい」という気持ちを感じているというのだ。
平井先生は「救急って自分の思っていた医師像でした。医者っぽいですよね。実際、しっかりした北大の救急で研修してみて、(救急での仕事などが)しっくりくるというか、自分はこういう世界をめざしていたのかもしれないと思っているんです」と進むべき道を悩み始めていると打ち明ける。
残りの初期臨床研修は産婦人科と外科となっているそうだが、「変更はききますけど。うーん。また救急に戻ってこようかなという考えもあるんです」と平井先生は今、救急の魅力に取り付かれている様子だ。