救急医療は医の原点ともいえる。研修の必修化に伴い、研修医は否が応でも一度は通り抜けなければならない道でもある。しかし、救急は3K職場(キケン、キツイ、キタナイ)の一つと思われているのも事実である。医療事故が起きやすい環境に加え、ドクターヘリやドクターカーで急行しなければならないために事故に巻き込まれるリスクも高くなる。24時間以上の勤務が続き眠られないこともあり、精神的にも体力的にもキツイ。患者の排泄物や嘔吐物とつき合わなければいけない環境もある。
しかし、絶対的多数の研修医は、実際に救急で研修を受けると己の手技や医学的知識の未熟さに気が付き、短期間ながら様々な症例に接し、学べるために、救急の面白さを口にする。
今回紹介する2人の研修医も8月いっぱいで無事に救急での研修を全うし、1人は「できれば来年、もう一回、研修を受けたい」と、もうひとりは「毎日、違う症例の患者を相手に出来て楽しかった」と話していた。
医者を目指した動機は「骨折」と「家族の病気」
まずは、二人のプロフィールから紹介する。伊藤憲(いとう・けん)医師と小竹徹(こたけ・ひとし)医師で、共に札幌市出身で、札幌北高等学校を卒業。二人は1987年と同じ年に生まれたが、伊藤医師が4月の早生まれ、小竹医師が3月の遅生まれのために学年はひとつ違う。伊藤医師は一年の浪人期間を経て杏林大学医学部に入学、小竹医師は二浪して聖マリアンナ大学医学部に入学して、二人はめでたく今春、医師免許を取得して卒業。帰札して4月から北大病院で初期臨床研修を受けている最中だ。
医者になるきっかけは、伊藤医師が「いくつかありますが、家族に体調が悪い人がいて、何とか(自分でも)したかったから。あと実家が開業していてその影響もあって医学部に進みました」と話す。特に親から医者になれと言われなかったものの、家業の病院がどうなるのかを心配していたことも医師の道を志したきっかけだったともいう。一方の小竹医師は高校2年生の時に怪我をして入院したのがきっかけという。「入院中に医師の存在の大きさを思い知りまして。手術とかしてもらって。将来、医者になりたいな思いました」と話すが、その怪我は学園祭での腕相撲大会による上腕骨骨折。将来への進路に多感な時期でもあり、それまでは親が薬剤師だったこともあり薬科大学を漠然と考えていただけに人生とはつくづく面白いものだ。骨折がなければ小竹医師は誕生していなかったかもしれない。
「救急」の研修先を北大に選んだ理由
研修先に北大の先進急性期医療センターを選んだ理由を、伊藤医師が「3次救急指定なので、重症の患者さんを多く見られるし、基本的な部分の全身管理ということができるようになりたかった。色々な疾患の原因になる体の水の出入りとか、電解質バランス、栄養や循環、呼吸など。基本、どこに行っても役立ちそうなこととかを3次救急の北大で勉強したかった」と話せば、小竹医師も「全身管理という意味では伊藤先生と全く同じ理由ですね。感染だったり体液管理だったりとか勉強できたならば」と動機を語る。小竹先生はさらにユニーク理由として「僕はもともとのんびりしている性格なので、早めに瞬発力をつけなければならないと思って、早めに救急をとらせてもらいました」と照れながら話す。
二人は今の研修を学生時代とは当然ながらまったく違うと口にする。小竹医師は医療での瞬時の診断と治療方法の決断の大切さを実感しているという。また、伊藤医師は、本当の意味で患者さんと向き合うことの大切さを学んだという。「学生時代は病気に対してだけの関心であって、患者という人に対しての意識が持てていなかった」と話す。
さらに伊藤医師は「学生時代のフィードバックは試験の点数とかだったけど、今は知識や手技がフィードバックされています」と答えれば、小竹医師も「学生時代に習わなかった『中枢性塩類喪失症候群』という病態を知れて面白いと感じています」と口を開く。その言葉に反応するように伊藤医師も「頭部外傷とか心肺停止の人に起こりうる症状で、学生時代には聞いたこともなかった」と相槌を打った。
「生」への喜びと「死」への無念感 – 研修期間中に印象に残った症例
初めて受け持った小竹先生の患者はCODPがベースにあり、低酸素血症から心肺停止となって運ばれてきた。組成は成功したものの、初療室で既に痙攣が起き始め、先輩医師は「予後が良くないだろう」と口にしていた。このような患者を診るのも初めてで、「何が起こっているのだろう」と自分でどう対処したらよいかも分からなかったと言う。全てが解からないことだらけで、いくら輸液をしても脱水症状が続き、血管内に水が残らない状態だった。むくみがひどくなり、「体液管理が難しかった」と振り返る。結局は間もなく亡くなってしまったのだが、それは患者が生前から意思で延命治療を拒否していたこともあり、積極的な治療を中止したためだった。「自分は患者がお亡くなりになる時には立ち会えなかったけど…。亡くなった患者は初めてではないけれど、ICUで受けもった患者さんは初めてだったので」と少なからずショックを受けた様子だ。

印象に残った患者について語る伊藤医師
一方、伊藤医師はその逆で、もう意識が戻らないだろうと思われていた患者さんが普通に話せるようになって杖をついて一ヶ月後に退院していった症例をあげた。「心肺停止で運ばれてきて、胸骨圧迫をやっても長い間心臓が止まっていた患者さんです。最終的には自己心拍が再開したのですが、意識が戻ったりする可能性は低いのではないかと。一回、心臓が動き出しても、このまま亡くなってしまうかもしれない人でした。しかし意識が3日後に戻り、多少のマヒはあるものの普通に話せるようになりました。3次救急で来た重症患者の蘇生行為が報われた瞬間でした。無理な蘇生行為はやめようと思ったくらい重症な患者さんだっただけに、報われた気がします」と伊藤医師。そう話しながらも蘇生行為は、どこで終わらせていいのかという難しさも口にした。「今は先輩の、担当医師が判断しているのですが、自分でどのラインを引いて見極められるのだろうか。そしていつになったら(その見極めが)できるのだろうかと思っています」。
救急研修で身に付いたことあれこれ
伊藤医師は救急の医療行為の怖さを学んだという感想を持つ。「手技とか知識は、色々とやらせていただいたので今後も役立たせていただきます」と話し、「自分たちがやっている医療行為は危ないことでもあるということを学びました」と付け加えた。どういうことか。「医療行為なんですけど、人に対しては“侵襲”を加えているんだなということです」。侵襲とは、「手術・けが・病気・検査などに伴う痛み、発熱・出血・中毒など、肉体の通常の状況を乱す外部からの刺激をいう」とある。伊藤医師は「(注射などの)針を刺すことは(患者を)傷つけること、気管切開も傷つけること、普段の処方で投与するくすりも副作用があるので傷つけることで、全てが侵襲じゃないかと思っています」。
伊藤医師は侵襲を、救急での医療行為として否定しているわけでも、非難しているわけでもない。命を助けるために手技で人を傷つけている部分もあるのだということを自覚したのであって、その分、医者には十分な注意と集中力と知識、判断、手技が必要だという事を痛感したのだ。
一方の小竹医師は、自分の「性格面」の話を強調した。「恥ずかしい話ですけど、4,5,6月とわりと受け身の姿勢で研修先を回って来てしまっていました。低レベルな話なんでしょうが、救急に来てからは自分で(症状を)疑えば積極的に検査してみたり、心臓の様子を診てみたりとか、そういう行動を起こすことの大切さを学んだかなと思いました」と小竹医師。もともとのんびり屋の性格。救急医療の「切った張った」の大立ち回りの現場で少しでも素早い立ち振る舞いができる性格になりたいと願い、「ちょっと頭をはたかれる」気持ちで救急での研修に挑んだという。「自分は2回くらい救急をまわるとちょうどいいのかもしれません」と照れ笑いする。のんびり屋の医者が劣っていて、機敏な医者が優秀というわけでは、この世界では決してないが、小竹医師は医者と言う前に人間としての心構えを救急での研修で感じたのかもしれない。
未来の自分像は
救急での研修がよほど印象に残ったのか、二人の思いにはある共通点がある。それは専門医を目標にしながらもゼネラリストとしての医者への憧れだ。いわば南極観測隊員の医者として厳しい環境の僻地にでかけても治療できる医者であり、飛行機の中で急患が出ても手を上げて診られる医者。

将来について語る小竹医師
伊藤医師は「将来ですか?まだ、何科になるとかを決めていなくて、研修の先々で魅力を感じています。救急科もいいなと思いながら2ヶ月間研修させてもらったんですけど、(親が開業している)消化器内科も考えたんですが、まだ絞らないで、色々なことを診れるようになりたいですね。誰かにお願いと言うのではなくて、自分で治せるような実力がほしいですね。専門じゃないからお願いとは、あんまり言いたくないですね。いろんなところで勉強して、少なくともその人のためになにかできる、第一歩目でも踏み出せるような実力がつけば。2歩目、3歩目くらいはおまかせしても一歩目くらいはせめて自分で踏めるように」と話す。
小竹医師も「僕は、知識とか技術面で専門性を持ちながらも、ゼネラリストというか全身を診られる内科医になりたいなとは思っています。身の回りに腎臓が悪い人が家族でいるので、今のところは腎臓内科ということを考えていますけど、まだ、確定はしていません。電解質のことに詳しい訳ではないし、それこそ内視鏡とかカテーテルはできないですけど、そういう全身管理ができる内科医を考えています」と結んだ。
(取材日時:2013年8月26日)