北海道大学病院 救急科 | 北海道大学 大学院医学研究科 侵襲制御医学講座 救急医学分野

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救急医の横顔 [第18回]川原翔太先生

新型コロナウイルスの感染が拡大する中、困難に立ち向かう医療関係者が注目されています。人々は感謝の言葉を述べ、ブルーインパルスが東京の空に激励の飛行を披露しました。そんな状況に対して、川原翔太先生は「違和感がある」と言います。「そもそも医療は社会インフラの一つ。蛇口をひねれば水が出るように、医師が医療行為をするのは特別なことではありません」と言います。「救急医までの道のりは、まわり道の連続だった」という川原先生に話を伺いました。

恋心と反骨心が医学部合格の原動力

川原先生の写真

出身は福岡県直方市です。年齢はずっと離れていますが、名大関と呼ばれた魁皇関と同じ中学校に通っていました。魁皇関は勝つと花火があがる地元の名士です。しっかりと親方の指導を聞くことで強くなられたのでしょうか。かく言う私は、あまり人の話を聞かない子どもだったので、親は手を焼いたと思います。
医師を目指すに至ったスペシャルなエピソードはありません。しいて言えば高校生の時に好きだった女の子が医学部志望だったという単純な動機で、九州大学医学部に入学しました。相手は違う大学に進学しましたし、片思いで付き合ってもいませんでした。青春時代の淡い恋心が医師になるための背中を押したという感じです。親から「医学部は無理」と言われたことが反骨心に火を付けました。もしかしたら私の性格を熟知しての発言かも知れませんね。

家庭教師先の親御さんがモチベーションを支えてくれた

思いがけず医学部に合格したことに喜んでいる両親とは逆に、私は次第に「医学部なんてつまんねぇ」と思うようになりました。試験が多く自由な時間もあまりない。それが6年も続くなんてやってられないと言う気持ちが強くなり、一時は本気で辞めようと思うこともありました。モチベーションの低下により1年間休学したり、医学部の先生に相談したりもしました。一番影響が大きかったのは家庭教師先の親御さんの存在です。親身に話を聞いてくれたり、食事に誘っていただくなど、精神的な支えになりました。さまざまな方々の支援を受けて「苦労して入学したのだから続けてみよう」という気持ちになることができました。

多様な体験を求めて雪国へ

2011年に医学部を卒業後、研修医として山形県立新庄病院に赴任しました。人口約3万5千人の都市で、四方を山に囲まれた豪雪地帯です。大学病院とは違う環境で学びたかったことや、地域医療の現状も知りたいと考えて選びました。当時の副院長が個性的な方で、研修医の受け入れ人数が少ない分、さまざまなことを体験させてもらえそうな点も決め手になりました。新庄に住んで真っ先に思ったことは「遊ぶ場所がない」。風光明媚な景色や美味しい食べ物はふんだんにありますが、夜になると明かりがついているのはコンビニエンスストアくらい。怠け癖のある私が仕事に打ち込むには最高な環境でした。
山形県立新庄病院では、希望通り多様な経験をさせていただきました。大学病院とは違う患者層で、救急車で搬送される患者様も多い。都市部に比べてひとつの病院が担う役割が大きいなど、地方医療の課題を知れたことは有意義でした。最後まで苦労させられたのが方言です。この地方は「新庄弁」という独特な言葉を使うため、高齢の患者様が何を言っているのか分からず、そのつど看護師さんに通訳をお願いしていました。新庄で2年間過ごしましたが、成長した喜びよりも「まだまだだ」というスキル不足を感じながら研修医としての期間を終了しました。

スタートラインでの苦悩とフリーランスの逡巡

学生の頃から九州大学の腎臓内科医になりたいと思っていたので、2013年4月に九大の内科に入局しました。希望通りの配属でしたが、仕事はシンプルに大変でした。研修医と違ってスタッフとしての責任が重くなりますし、専門的なことはもちろん、さまざまなことに対して諸先輩からの指導が入る。医師としてのスタートラインについたばかりで未熟さゆえに指導を受けることもありますが、必ずしもそうでない場合もあり、結構しんどい毎日を過ごしていました。2年間勤務したのちに「この職場で続けていくのは難しい」と思い、退職を決意しました。
九大退局後は、アルバイト医師として福岡県内や長崎の病院で外来や当直などを行いました。これまでの人間関係から解放されて仕事ができるのでとても楽しく、年3回も海外旅行に行くなど自由な生活を送っていました。同期が出世しようが自分には関係のない話。自分は自分と割り切って「このスタイルで生活できるなら、それでもいいや」と思っていました。しかし一方で社会保障が受けられないバイトの立場に不安を感じていました。
バイト生活2年目を向かえ、「このままだと何かあっても誰も助けてくれない」、「何か資格を取得してスキルアップすべきではないか」という迷いが生じるようになります。そんなことを考えていた時、後輩医師から「先生は救急向きだと思います」と言われました。救急車が多く来る病院で研修医として勤務したし、救急科がない病院では当直の内科医が救急の役割を担うことも多かった。何より救急医療は嫌いではない。そのひとことで頭の中でバラバラだったパズルが組み合わさり「まあ、やってみるか」という感じで、その後の方向性が開けていきました。

救急医療実践の場を求めて北海道へ

フリーランスとして活動していた時に、北海道の病院でも勤務したことや、旅行で訪れて気に入っていたこともあり、2017年に札幌に移住。勤医協中央病院の救急科に1年間勤務したのちに、翌年に北海道大学救急科に移籍しました。軽症患者が多かった勤医協中央病院に対し、北大は重症患者が多く、最初は別の世界に迷い込んだようで何もできませんでした。現在はスキルを身に付け、大変ながらも楽しく働いています。医者になってから一番楽しいと思っているかも知れません。北大に来てよかったと思います。
救急科に搬送される患者様は、今すぐ何とかしなければならない方々です。例えばクルマに轢かれて運ばれた場合、肺の破裂が疑われます。救急科は肺に対して直接的な治療はしませんが、肺が破裂したことで起こる問題に対応し、外科・放射線科など根本的な治療を行う先生に命を繋げていく仕事です。心筋梗塞なら循環器内科、くも膜下出血なら脳外科という感じです。「なんとか助けたい」という思いを持ちながら、自分にプレッシャーをかけすぎず、冷静に対応しています。目の前で患者様が生き返る(蘇生)してくれたときは「やった」という達成感があり、アドレナリンが放出される感じがします。容態が不安定な患者様の手術をすぐに開始するのは難しいので、前段階の対応を確実に行えることが、救急医としてのスキルだと思います。

助けられなかった命と、これから助けたい命

2019年10月に札幌市内でひき逃げ事件がありました。「路上で人が倒れている」とタクシー運転手が警察に通報し、その被害者が救急科に搬送されてきました。救急車の中では意識があったそうですが、到着時には心肺停止状態でした。若い方でしたので「何が何でも蘇生させたい」と思い、胸を開けたりカテーテルを入れて止血しましたが、全然血が止まらず助けることができませんでした。それが今も頭から離れません。その時、自分には外科のスキルが必要だと強く認識しました。内科に勤務していた時も半年くらい入院していた血管炎の患者様を助けることができず、しばらくの間、心が折れたことがあります。
今回搬送された患者様に対しても、「自分以外の医師が担当していれば助かったのでは」と自責の念を感じています。外傷で一度心停止したら助かるのが難しいと言われているので、自分を責める必要はないのかも知れませんが、そういう気持ちになることもあります。内科に勤務していた時の上司から「自分が関わって亡くなった患者様の死因は墓場に行くまで考えなくてはならない」と言われ、確かにそうだと共感しました。過去にも助けてあげることができなかった患者様がいましたが、今のスキルがあれば助けることができるかも知れません。現段階では助けられない患者様も、もっとスキルを上げることで助けることができるかも知れません。そんな気持ちを持ちながら日々を過ごしています。

とにかく明るい救急科

北大の救急科は人間関係が良好です。いい意味でサバサバしていてドライ。個人的に飲みにも行くし、飲み会に行っても楽しい。プライベートでもみんなで温泉に行ったり、リアル脱出ゲームで遊んだりもしてます。若い先生が増えてきたので、いい空気感になってきていると思います。救急科の先生は全員尊敬しています。特に私は救急が後発組なので、諸先輩の技術や知識は頼りになります。えっ、「リスペクトできる後輩もいるか」ですか。訂正します。後輩は尊敬していません(笑)。尊敬されるように頑張ります。

研修医へ贈る言葉

「前向きな話ですよね」と笑いながら、次のように語ってくれました。
内科経験者としてアドバイスすると、救急のスキルは、どの科に行っても活かされます。内科や外科を希望する人で重症の患者様を診る可能性がある人は、一度救急を経験してから他の科に移ってもいいと思います。経験値をあげることがスキル修得の最良の方法です。まわり道をしてみるのもいいものですよ。