北海道大学病院 救命救急センター | 北海道大学大学院医学研究院 侵襲制御医学分野 救急医学教室

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救急医の横顔 [第7回]柳田雄一郎先生

救急医は、派手なイメージとして語られることが多い。その最右翼は、急患が病院に運ばれて来ると救急医が大声で看護師やアシスタントに指示を出しながら、大手術をして一命を取り留めるというものだ。それは多分にテレビや映画の、俳優の役作りが強く影響しているためなのかもしれない。しかし、現実は意外なほど静かで、冷静だ。
今回、登場していただく柳田先生も、温和で物静かな語り口で、人に警戒感を抱かせない「ふわふわ」した雰囲気を漂わせる。いたってまじめな顔つきで「優柔不断」と自身の性格をこう口にするが、優柔不断ならば救急医として1年も持たないのではないかと思う。ましてや病態によらず救急でなければ助けられなかった命も数多くあるという自尊心もところどころにうかがわせる。
救急医の道を歩み始めてはや10年。ベテラン域に達した柳田先生の生き様をうかがった。

高校時代は学年で下から5番目の成績だったが

柳田先生の写真

医学生の時には、すでに救急医になろうという固い意志を持っていた柳田先生だが、医学部への道のりは人よりもちょっと遅かった。
柳田先生は、あまりにも有名な長野県の避暑地出身。生まれは東京だが、幼稚園から大学に入学するまでを過ごした。父は内科医で、病院勤務を経て開業したものの、柳田先生が学生時代に他界されている。
医師になったのは、特に親の背中を追いかけようと思った訳ではなかったという。親からも「医者になれと言われたこともなかった」と柳田先生。
高校時代は自宅から片道2時間の高校に通学していた。そのせいも多分にあったのかもしれないが、入学した当初は一学年約320人の上から3分の1には入る成績だったものの、学年が上がるにしたがって成績は急降下気味に。ついには下から5本指に入るまでになったという。
「部活も勉強もやらず、非常にだらけた高校生活を送っていました」と柳田先生。そう口にしながらも、小学校から続けていたアイスホッケーで国体にも出場している。
「就職するよりは大学生の方が楽かな」と思い、最初は法学部への進学を考えて受験。「立命館は受けたような記憶はありますけど、その他はどうでしたかね?覚えてないですね」と柳田先生は話す。
そして現役の時の受験は惨憺たる結果で終わった。
「まあ全然勉強していなかったので、こんなもんだろうなと思いました」
そして予備校も高校と同じように時間をかけて通学しはじめたが、自分の出来の悪さに「愕然とした」と笑う。高校を卒業してから高校の勉強を始めたのだ。
柳田先生は浪人2年目で「受かる自信があった」というが、試験問題が旧/新両課程が存在する年で痛い目に会った。3浪目の年は自宅で勉強(静養)することにして受験に臨み、北海道大学医学部に合格することができた。

医学部生時代から救急への道を志す

大学に入学してアイスホッケー部に入部したが、2年で辞めることに。
「ここはちょっと情けない話なんですけど、情熱が足りなかった」と照れ笑いする。
部員のほとんどは大学入学後にアイスホッケーを始めているそうだ。そのために部員はものすごく練習をするという。
柳田先生は小学校の頃からアイスホッケーに慣れ親しんで来た。少しでも上達しようという猛練習に「尊敬するが自分はそこまではできない」という感じを抱き始めたのだった。
「中途半端に続けるのが申し訳なくて」と2年間はほとんど休むことなく精一杯続け、部を去ることにした。
以来、勉学に打ち込むことに。柳田先生の言葉を借りると「学生時代をエンジョイしたんですかね」。

医学部学生時代から持っていた医師像は、全般が診られる医師だったそうだ。「父親の影響か分からないですけど、いわゆるお医者さんになろうと思っていました」と柳田先生は口にする。そして、そのイメージの帰結する場所が救急だった。
「救急医療ができないと医者としてやっていく上で心細いんじゃないかと思ったんですよね。それと救急が格好良く見えたんですよね」。
特段、ドラマとか映画の影響はなかったという。「何が格好良くみえたのかなあ?なんとなくですが」と柳田先生の目には病院見学や学生実習の際に、ともあれ救急が格好良く見えたのだった。

大学を卒業したのが2004年。たまたまその年から医師の臨床研修が必修化された。初期臨床研修先は砂川市立病院。救急医を目指すべく医者としての2年間の研鑽を積むことになった。
本来の希望は佐久総合病院か北大病院だったそうだが、「どちらも落とされまして」と柳田先生は照れながら言葉を続けた。「就職浪人なのかなあと思いながら、どうしたらいいんでしょうか?と救急の医局に聞きに来たんですよ。そうしたら砂川がいいんじゃないかと言われて、一応形だけの試験を受けて、落ちこぼれを拾ってもらったのです」。
その砂川市立病院で救急を軸に必修の各科を回って、医者としての自信を付けていくこととなった。
余談ながら、柳田先生の言葉を借りると、砂川市立病院は初期臨床研修先として今や人気病院の一つになっている。「自分が砂川出身と言うのが図々しく思えて」と恐縮する。

砂川での初期臨床研修を終えた柳田先生は、北大救急の医局に入局。北大病院先進急性期医療センター他、KKR札幌医療センター救急科、市立札幌病院救命救急センター他を経て2012年から北海道大学病院先進急性期医療センターに戻り、助教として後進の指導などにあたっている。

「知らない薬は使うな」

長く救急医をしていると、その分、「ヒヤリ・ハット」は多くなる。苦い経験は関係者が共有することで、今後の事故対策につながる。その中でも柳田先生は薬の処方について苦い経験がある。
柳田先生はその質問に対して開口一番、「知らない薬は調べてから使えということですかねえ。というより、知らない薬は使うな、です。当たり前のことですが」。
その真意について柳田先生は、「投与量だったり、投与方法だったりを間違えて危ない目にあったりしました。それこそ、先人の失敗を共有じゃないですけど、自分のものとして、我が身に起こったこととして、工夫することですかね」と説明する。
柳田先生は、アルカリ性に傾きすぎている血液を酸性側に傾けようとしたわけだが、その時にそれまで使われていた薬を適量処方したが、容態が急変。大事には至らなかったが、投与速度の間違えを犯していたことに気がついた。「1−2時間かけて投与する薬を10分とか15分で入れてしまったのです」と柳田先生。その薬についても聞いたことがあった程度で、処方するにあたって「調べようと思わなかった」ことが原因と述懐した。

花火大会を病窓から見せてあげた翌日に息を引き取った患者の記憶

これまでで印象に残る症例について質問すると、長い沈黙の後、「あえて絞り出すとすれば……花火」と言葉を紡ぎ始めた。
当時勤務していた病院からは、毎年行われている花火大会を観ることができた。柳田先生が担当していた40歳代の女性患者から「花火を観たい」と前々から相談を持ちかけられていたという。女性は肺の病気で入院していて、大半をベッド上で過ごしていた。喀血を繰り返していたが症状も安定していたことから、花火大会の夜、ベッドから車いすに移しかえて、よりよく見える別の病室に移動させた。家族も見舞いにきており皆で花火を楽しんでいた。色とりどりの花火が打ち上がるたびに患者の笑顔を照らし出していた。
花火大会が終わり、いつものように患者は眠りについた。
が、女性はその翌日に容態が急変してしまい、そのまま亡くなってしまった…。
柳田先生は「ベッドから車いすに乗せて移動したことは(死と)関係はないんでしょうけど。死を悟るとかそういう病気ではなかった。亡くなった患者の家族からは最期に花火を観られたことを感謝されてしまいました」と柳田先生は回想する。
患者の死と花火を見せたことにはまったく因果関係はないものの、何とも表現しがたい感情が、心の奥底にくすぶっているようだった。

刺激もあり、医療の入り口として学ぶには救急が最適

最後に柳田先生は救急を志す、あるいは興味をもった若い医者、医学生に対してこう語った。
「僕はあんまり、ここ(救急)だけが素晴らしくて、ぜひともこれをやりなさいとは言えないけれども、今、何かしらの科に入ってやっている人も(救急を)経験してみて損はないのではないかと思います。医療の入り口として、医療者のマナーとして救急を学ぶのも悪くないと思います」
畏まらず、自然体での志願を希望しているという。「来てみて驚くこともあるけれど、何とかなる」と柳田先生は微笑む。
そしてこう続ける。
「不謹慎かもしれないけれど、いつも刺激があります。ある程度経験を積んで来ると真新しさは少なくなってきますけど、それでも救急に関しては今でも新しい経験ができるっていうのがありますね。少なくとも10年半やってきて、もう少しやってもいいかなと(私自身が)思っていますからね」。