松田知倫先生プロフィール
1978年、北海道網走市に生まれる。2005年に旭川医大卒業、札幌東徳州会病院で初期臨床研修を積み、そのまま同病院の救急総合診療部、外傷整形外科を経て、札幌市立病院で3次救急の研修を積む。2013年10月に救急科医長に就任。日本救急医学会救急科専門医。
札幌市では、北大の先進急性期医療センターが3次救急医療の要の一つとなっているかたわら、札幌東徳州会病院救急科が2次救急医療の最重要な位置にいる。北大の先進急性期医療センターは、救命センター型救急であるが、札幌東徳州会病院救急科は、ER型救急の形式をとる。
ER型救急は、関係者の間で「振り分け救急」と皮肉を含んだ表現をされる。しかし、一見、安定している容態の救急患者に潜む重篤な状態を見分ける経験と眼力をで、しかるべき時に、しかるべき担当科の適切な治療を手配する能力を必要とする。札幌東徳州会病院救急科は、軽症から最重症一歩手前の患者まで受け入れるために、救急搬送される件数は北海道一で、年間に1万件前後という。週刊ダイヤモンドの病院ランキングの特集でも例年、全国トップテン入りの常連だ。
その病院で救急患者を受け持つ救急科医長の松田知倫先生に、ER型救急の魅力などを聞いた。
外科医を目指すも、必要性を感じて救急の世界に
同病院看護部のブログで松田先生は「チャームポイントは意外と大きなお腹です ♪笑」と微笑ましい表現で紹介されている。同じページには懇親会の酒席での記念撮影で、ピースサインをかかげる松田先生を「お茶目な一面も」とも表現。前後の脈絡がなければ皮肉のようにも受け取られるが、このように書いても書かれても人間関係にヒビが入らない信頼が築かれていることがブログの短い文章から伺える。
松田先生が救急の世界に入ったのは、今から9年前。大学を卒業と同時に札幌東徳州会病院で初期臨床研修として救急医学を志してから現在に至る。
しかし医大生時代は外科医に憧れていたという。そのまま旭川医大の外科の医局に入る予定だった。旭川市で外科医になるということは、その周辺の小さな町の病院で当直することを意味していた。内科医が当直していると怪我は見られない。体全般をそこそこに診られる医者となると、麻酔科医か外科医ぐらいしか当時は考えられなかったという。そこでは当然、救急患者も診なくてはならないため、外科医になろうと思った時点で救急医学が将来、「必要になる」と感じたという。「それならば初期臨床研修という2年間の制度がせっかくあるので、救急をたくさん受け入れているところではじめよう」と松田先生は卒業後、札幌東徳州会病院で「武者修行」することを決めたのだった。
「当時は、旭川医大では救急がまだ確立されていなかったし、徳州会は今も昔も大変と言われていて、月8回の当直が当たり前のところだったので、色々な病気が診られる。若い頃は苦労するのは当然という気持ちもありましたからね」と言葉を続けた。
また、外科医の世界で一人前になるには5年、10年という時間がかかる。どういった外科医に自分がなれるのか、想像しにくい部分も感じたともいう。松田先生は正直、「先が長いと思った」と口にする。
しかし、徳州会での救急ではまず、担当医の立ち会いのもと研修医に先に診させ、考えさせ、施させるシステムだった。自分がすぐにオペレーター側にならなくてはならない。上手く行ったり上手く行かなかったりすることはあるが、松田先生には救急診療のテンポが合っていたという。「やっていて、すごく楽しかったんですね」と胸の内を明かす。
救急の世界には期待とのずれが無い
ドラマでは救急患者の一命をとり留めるために、救急医が大声を出しながら一刻一秒を争うシーンが多く描かれる。もちろん誇張された世界だが、切った張ったのイメージはそれだけに強い。松田先生はそういったドラマ感を一切持たずに救急の世界に飛び込んで来た。
「もともと救急をできるようにならなくては」という気持ちが強かったと松田先生は説明する。「それに」と言葉を続けた。「救急車で運ばれて来て、今、自分の前にいる人が治療を必要とする患者で、自分のやるべき仕事なのだと単純にそう思っていましたからね」。
そういった意味でも、救急を学ぼうとした期待とのずれは一切無かったという。
救急医になった頃は、救急搬送されなくてもいいような患者さんの割合が高かった。モンスターペーシェントと言われる、悪態をついたり医者をないがしろにしたりする患者もいた。今振り返ると松田先生自身も「よく対応して来たと思う」という出来事はあったが、それでも「その中には命に関わる重い人もいて、ちゃんと助けなくてはならないという思いも生まれて来てからは、さらに救急の世界が面白くなった」という。
救急は自分の性分に最も適した職場
そこには、救急との相性が当然あったともいえる。
仮に救急に向き不向きの性格があるとすれば、松田先生は向いていたということになるのかもしれない。
初期臨床研修を終えて、同病院で内科外来を3年ほど担当していた時期があった。高血圧とか糖尿病とかの患者さんを毎日20人から30人を受け持つ。ほとんどが決まった患者さんで、顔見知りとかになっていった。「じゃあ、また来月に受診して下さい」と長く診(み)続けなくてはならなかったのだが、松田先生は「それが苦痛で嫌だった」と述懐する。
初期臨床研修で外科を学んでいた頃もそうだった。外科医になりたかったのだが、長く入院を続けているとどうしても患者さんと信頼関係と顔なじみになってしまうという。松田先生は「そのことがすごく辛かった」といい、「性分に合わなかった」と話す。
誤解が生まれやすい表現になるかもしれないが、内科の世界は、「締め切り」が無い世界。
松田先生は例え話をする。
「糖尿病を良くするというのは、(完治の可能性が極めて低いため)ゴールがどこなのか、何だかよくわからない。しかし、救急の場合だと、一時間後には白黒をはっきりつけなくてはならない。重篤な患者さんにいたっては10分で決断しなければ、間違った判断をすると死ぬかもしれない」。つまり「区切りが早い。締め切りがある」というのだ。
松田先生は自身で締め切りが設定されている中でベストを尽くして答えを出すということにやりがいを覚えるタイプだともいえる。
写真のジャンルで例えるなら、風景のように天候を見極めてじっくり構えて撮るよりも、「出たとこ勝負でその一瞬を切り取るスナップ撮影」だそうだ。
「そういったニュアンスでは短気な性格なんでしょうね」と松田先生は笑う。
「何でも来いに名人なし」と言われるけど…
救急はその分、内科的要因から外科的要因まで持った患者を幅広く診られるスキルが必要になってくる。が、ことわざに「何でも来いに名人なし」と言われているように、日本では「何でも屋」はあまり好かれない環境がある。「器用貧乏」という言葉もある。
松田先生自らが、そのことわざを持ち出したのだが、こう否定する。
「それは物事の捉え方の違いであって、僕らは急性期であれば何でも対応できる」。つまり「急性期という専門性があるわけで、どんな急病の人に対しても答えも出せるよっていうのがあります」と。それは専門性があるか、どうかという認識の違いでもある。
救命センターの医者がコマンダーと称される一方で、ER型救急医は「振り分け医」とよく例えられる。
もちろん自ら治療することもあるが、特に札幌東徳州会病院の場合は一日平均30件ほど、多い日で80件近く救急搬送されて来るため、患者の診断から治療までの全ての対応は物理的に不可能となる。そこで診断をメインに切り替えているのだが、「振り分けなんだろう」と揶揄されることも多いという。その時は即座に「じゃあ、やってみてよ」と言い返すようにしている。他科の医者は実際に容易に「振り分け」ができない。それはなぜか。そこには急性期という救急医学の「専門性」がないためでもある。
ER型救急で一番大変なことは、重症かもしれない患者が来ることで、それを見逃さないように「振り分け」することであるという。
救急搬送されてくる患者の6割が歩いて帰り、残りの4割が入院する。
そのため重症かもしれないし、軽症かもしれない。何科の対応が必要になっていくのか、最初は分からない。
例えば交通事故で運ばれて来たとする。足が骨折しているけど、頭もぶつけているとなると、脳外科と整形外科の両方が必要になってくる。
松田先生は「うち以外で両方対応できる(2次指定の救急対応)病院が札幌にはないんですよ。うち以外だと脳外科が不十分だったり、整形が不十分だったりする。お腹が出血していて大変なことになっていたりすると、きちんと診られるのかどうか。これはもう2次救急の特徴なんですよね」と説明する。
北海道以外では、救命救急センターが2次の対応もしているのだが、軽症か重症かどうかという微妙な患者さんをセンターが数多く受け入れてしまい、そのために3次の患者を診られない状況が全国では起きているという。
幸い、北海道では2次と3次の救急搬送病院が指定されており、松田先生は「3次救急の諸先輩たちがしっかりやっていて下さるので」と2次救急の診断に専念ができていると話す。
救急の専門性で、重症な患者さんを見逃さないように、間違いの無いようにして対応していくのが2次救急の使命だそうだ。
経験に優る「振り分け」の見極め無し
そのエピソードを裏付けるような大事故が、2010年7月20日午後5時ごろ発生した。場所は北海道石狩市内の国道231号の送毛トンネル内。大型トラックとマイクロバス、RVの3台が絡む衝突事故で、トラックとバスの男性運転手2人が死亡、男女37人がけがをしたというものだ。当時の発生時のニュースでは、うち28人は軽傷、残りのけがの程度は不明と報じられている。
この事故ではドクターヘリも大活躍したのだが、松田先生も要請で現場に急行、けが人の「振り分け」を担当した。このような大事故の現場は初めての体験だったという。
到着した時には、重症者の行き先が決まっており、ケガはしていても歩行可能な人たち、トリアージで言えば緑にあたる人が30人あまりが近くの診療所へと収容されていたところであった。
「ひょっとしたら重症者がまぎれているかもしれない」。
松田先生は1人30秒ずつという短時間で「どうですか?大変だったですね」と声をかけながら診ていった。
すると自分でも「驚いた」と述懐する。何に驚いたかというと、けが人の状態が手に取るように、何の不安も無く分かったことだ。「あ、この人は折れている。この人は痛がっているけど、何でもないな」と。
幸いなことに重症者はいなかったが、「これまで何千件と診て来ているので、これは経験で分かってしまうんですね」と松田先生。
何でも無かった人に「良かったですね」と声をかけられることが喜び
3次救急も徳州会でも受け入れようという意見が出たことがある。しかし松田先生は首をかしげ、異論を唱える。
「重症患者を救えることに喜びを感じる人は3次救急でいいけれど、(救えた人の)それと同じかそれ以上、死ぬ人だっているわけでしょう」と。
松田先生は「(搬送されてきた救急患者に)何でも無かった、良かったですね。(家に)帰れますね、というような対話に生き甲斐、やりがいを覚えているのです。また自分が治せなくても、誰か上手な人が治せればいいのではないでしょうか。自分が手術するよりも、あの人にお願いして『ああ、良かった』と思える方がお互いにハッピーだし、それでいいんじゃないかな」と話し、「それが僕ら2次の仕事なんだよね」と穏やかな表情をみせた。
高校2年時に鼻の手術を受けたことが医者を志すきっかけに
そんな松田先生は、高校時代は理数科系の学生だった。理論や理屈で割り切れる世界が好きだったという。しかし同時に、「その理論を現実にあてはめることは難しい」と松田先生は考えていた。そこで導き出した答えが、医学という世界だった。「ファジーというか、理屈から離れた部分も両方同時に考えなくてはならないのでは」と思ったそうだ。
そのきっかけとなった出来事が、高校2年の時に受けた鼻中隔湾曲症の矯正手術。術後に鼻へのガーゼなどの詰め物を取ってもらったのだが、出血がうまく治まっていなかったらしく、2時間くらい担当医が血まみれになりながら止血に対応してくれた姿に感動したというのだ。
「僕が咳をするたびに先生に血を吐き付けてしまうですよ。すみませんみたいなこと言うじゃないですか。先生は、ま、しょうがないなという感じで治療していく。今だったらプロとして当たり前のことなのかもしれないですけどね」と笑顔をのぞかせた。