北海道大学病院 救命救急センター | 北海道大学大学院医学研究院 侵襲制御医学分野 救急医学教室

〒060-8638
北海道札幌市北区北15条西7丁目
Tel / 011-706-7377 (内線7377)

お問い合わせ

救急医の横顔 [第3回]小野雄一先生

「救急医の横顔」第3回目は小野雄一先生にお願いしました。記事の中にもありますが、小野先生は九州から東京を経て、北大へ救急集中治療の研修に来られている先生です。もちろん、医者10年目になるベテランですが。。。では、今回もじっくりお読みください。

小野先生の写真

多くの救急科では、外科的手術を施して蘇生させれば、それで終わりのところが多いという。しかし、北海道大学病院 先進急性期医療センターの救急科ドクターは、院内ICUの管理に大きく関与していることもあり、救急患者の蘇生後にも社会復帰に向けての綿密な治療に携わる。他施設の救急科とは、この点がおいて大きく違っている。
小野雄一先生、35歳。彼は東京での救急での「武者修行」に挑み、さらに集中治療を学ぶべく、北の大地で新生活を歩み始めることになったという。2012年7月からで、2回目の雪のシーズンを迎える小野先生にお話を伺った。

人生の岐路に人あり

九州男児。大分県大分市に元漁師の息子として生まれ育った。同市東のはずれ、豊予海峡の佐賀関。その地名を聞けば多くの魚介類好きならだれでもが喉をならす「関サバ、関アジ」の産地でも有名だ。小さい頃は釣り好きで、アジ、サバを釣るのはお手の物だったという。自転車で友達と釣りにでかけ、「持ち帰ってよく食べた」と話す。
話しながらよく笑う。決して大声ではないのだが、滑舌良く、一語一語、はっきりした言葉を刻んでいく。
医者になったきっかけは、あとで考えると、父親の影響も多分にあったという。父親はマグロ漁師だったが、200海里規制のあおりを受けて、遠洋漁業は危うくなると一念発起して看護師になった人だ。漁師姿の父親の背中の記憶はないが、幼い頃から宿直とかで病院によく連れて行ってもらい、「医療関係はいいなあ」と小野先生は幼い頃に思っていたそうだ。父親から「医者はいいぞ。職が安定しているぞ」という言葉もよく聞かされ、「刷り込まれてしまったのかも」と小野先生は笑う。とは言うものの、医者になる気はなく、中学時代までの漠然とした進路希望はエンジニア。機械関係が好きだったため、工業高校に進学しようと思っていたほどだった。
高校は、工業高校か高等専門学校を受験しようと考え、「短大の卒業資格が簡単にもらえそうなので、、、」と小野先生は高専の願書を取り寄せ、出願した。しかし、担任教師は「短大で終わるのはもったいない。お前は絶対に普通科に行って大学に進め!」と大反対されたという。受験の前日の夜遅くまで何時間にもわたり、普通科の高校を受験するように説得され、結果、根気負けし、高専の受験を断念した経緯がある。
その後、たまたま受験した私立高校の特別進学特待生コースに受かり、大分東名高校に授業料免除で進むことになった。
この担任がいなければ、今の小野先生は医者になっていなかったのかもしれないと思うと、人生とは面白い。

大学卒業後は麻酔専門医に

高校を卒業後、熊本大学医学部に進学。しかし医学部の滑り止めに受験したのが航空保安大学校だった、と打ち明ける。私立大学への進学は家庭の金銭状況が許さなかったためで、「受験料は無料(ただ)だったし、合格すると(公務員扱いで)給与が出るので、、、」と小野先生は笑いながら、「コンピュータ関係とか航空管制官になるのも嫌いじゃなかったしね。先に熊本大学の合格が決まったので、医学部に進学する方を選びました」と話す。
小野先生は、医師臨床研修制度が施行される前年に卒業。「だから僕はスーパーローテション前の最後の世代になるのです。」と話す。
麻酔科への進路を決めたのは大学6年の冬。それまで麻酔科の講義を受けた記憶すらないという科だった。医局に残るのが当たり前の世界。国家試験の受験勉強のまっただ中ではあったが、医局説明会に行くと飲食が振る舞われる。軽い気持ちで「ただ飯、ただ酒を飲みに出かけたのですが、麻酔科が一番印象に残った」と小野先生は話す。
小野先生の医者像は総合診療のgeneralist。現在のように総合診療という診療科が確立していない時代だったため、自然に外科か救急かを目指すようになった。しかし、小野先生によれば、熊本では救急を本格的に勉強するには良い条件が整っていなかった。とはいうものの、まだその頃は救急へのモチベーションはそれほど高くはなかったという。一方で、外科医として一人前になるための修行の時間がかかりすぎる。小野先生は決して短気ではないのだが、「一人前になるまでの時間が待てなかった。」と笑う。
そうして、迷いながらも麻酔科の先輩医師に相談すると「(救急を)本気で勉強する気があるならば、東京や大阪などのちゃんとした大きなところで勉強してこい。その前に麻酔科に来い」と。麻酔科は呼吸と循環に関するプロフェッショナルな科で、蘇生術が学べる所以からだ。その先輩医師自身も、麻酔科の後に救急を勉強しており、説得力が違っていた。
熊本大医学部麻酔科医局に3年ちょっと年在籍して熊本労災病院に派遣された。本来ならば1年大学医局で専門に勉強した後、2年目に外に出られるシステムだったが、医師の臨床研修必須化でしばらく新人が入ってこなくなった。逆にその分、頼りにされることになって、数多くの手術に麻酔医として立ち会うことができた。と言うよりは立ち会わざるをえなかったというのが実情でもあった。ハイリスクな症例にも初期の頃から対応しなくてはならなかった。
「薬の投与の仕方で、自分の技術の未熟さで、この患者は死んでしまうのでないか、、、」というプレッシャーを感じる日々。「怖かった」と言いながらも小野先生は「循環と呼吸の管理、血圧や人工呼吸のコントロールが勉強になったし、(場数を踏むことで)怖いものはなくなりました。」と話す。
その後、3年目の7月からは熊本労災病院でまる4年勤務することになった。普通ならば考えられないことだが、医者になって5年目で労災病院では部長に次ぐ立場になっていた。臨床研修の必須化で、若い医者がしばらく入って来なかったという特殊な事情もあった。
麻酔科では患者の安全を一番に考える術中の管理も担う。そのために術者がやりたい手術を時としては止めなければならないこともある。
「今の状態で手術したら(患者は)死にますよ」と小野先生は大先輩の40代、50代の医者に向かって進言して、喧嘩することもしばしば起きた。大学の医局時代には若くして豊富な経験があったためにできたことだが、小野先生は「ペーペーが文句を言わなければならなかったのが、非常にストレスでした。これも麻酔科だったからできたと思うんですよね」と昔の思い出を語る。

いよいよ救急の「武者修行」に上京、そして北へ

2年で標榜医の資格を取れたら救急に「修業」に行こうと考えていたが、新たな麻酔科医が補充されないために、なかなか修行に出られない状態がしばらく続いた。
当時は麻酔科の氷河期時代と言われ、辞めていく人はいても、新たに入ってくる医師が少ない時代。辛抱強く、麻酔科で研鑽を積みながら麻酔科医が増えていくのを待たざるを得なかった。
はやる気持ちを抑えながら、麻酔科医の数がそろい始めた7年目。ようやく医局の教授に救急への研修を申し出ることができた。「救急がやりたかったので、ちょっと(年齢的に)遅いかもしれませんが、行かして頂きたいんです」と。医局長らは「先生、頑張ってきてくれたからね。救急を勉強してきて、むしろ熊本にその技術を持ち帰ってきてよ」と快諾、「武者修行」に旅立つこととなった。
「修業」先は日本医科大学付属病院 高度救命救急センターに決めた。他にも2つの病院を見学したが「たまたま、救急患者が少なくて」と小野先生は話す。「本当は日大の救急でと考えていたんですけど、、、」。
たまたま日本医科大学の救急が忙しく、面白そうに見えたという。日医の高度救命救急センターは、日本で初の救急救命センターで、東の大阪大学付属病院と競いあうほど、ぬきんでた存在でもある。
「そういった先入観を抜きに見学したのですが、自己完結型で色々な診療科にコンサルトするのではなく専門家が集まっているんですね。外科、脳外科、整形外科の専門家で、しかも救急をちゃんと勉強している先生たちでね。救急車がくるとぱっと集まって、色んな治療をしていく。しかし、そこには麻酔科が存在していなくて、自分の力を活かせそうだし、プラス派手なこともやっていて面白そうだったから」と、小野先生医は研修先を日本医科大学付属病院に決めた理由を述懐する。
しかし、それはある意味裏目に出た。中に入ってみると日医の救命救急センターでは麻酔/集中治療にあまり重きをおいていないように思えたのだ。小野先生の考え行う麻酔/集中治療の醍醐味は、呼吸循環と鎮静・鎮痛に極みがある。しかし、同センターではあまりその点には注目していなかったように思えた。日本医大高度救命救急センターという病院の大きな役割を考えると、次々に患者を受け入れなければならない使命がありそれも致し方ないのだが…。救急の初療を学ぶ環境としては申し分ないのは間違いない病院である。
小野先生は「でも、そんなことじゃ自分にとって駄目じゃないか?それじゃあ、片手おちじゃあないか・・・」と違和感を覚えた。
同じような集中治療に対する考えを持っていた医者がいた。
それが北海道大学病院 先進急性期医療センターから同じように研修に来ていた和田剛志先生だった。小野先生とは、ほぼ同じ時期から研修を行っていたため、お互いに腹を割りながら会話するまでには時間がかからなかった。
和田先生は北大病院のICUでも学んでいた経験を小野先生に話しながら、「麻酔科ベースの集中治療という考え方は、おそらく北大の考え方にあうよ」と何度も口にした。小野先生は当然ながら悪い気はしなかったが、さらに北上する気はあまりなかったという。
ところが和田先生の治療を見るにつけ、小野先生は「この人、凄い」と思ったそうだ。集中治療に対する考え方も明らかに他の医師とは違っていたし、話す内容だけでもすごく勉強になった。「面白い考え方するな。患者さんのためにもなるし、やっぱり和田先生が勉強したところで、僕も勉強をしたくなって、、、」と2年ほど日本医科大での救急の研修を終えて、北大に移ってきた経緯を説明した。

印象に残る症例というよりも、治療の濃さに印象が

昨年7月(2012年)から北大病院で勤め始めてかれこれ1年半近くになる。これまで救急での印象に残る症例を伺うと、小野先生は「ある症例がというよりも、集中治療の濃さがいいですね。全体的な管理の仕方が印象に残るというか、勉強になりますね」と答える。
「例えば、(北大)には丸藤教授というDICでは世界有数の先生がいらっしゃる」と小野先生は口にして、「その先生のもとで血液凝固の事がカンファレンスで聞けるというのが非常にありがたい。集中治療でも他の病院では気にしない血液凝固の事に関して当然のことながら気にして色々な治療をしていく。そのようなサゼスションがある。それは非常にありがたいことで」と続けた。
また北国特有の例として心筋梗塞を指摘した。治療では人工心肺(PSPS)を導入する頻度が高くなるという。小野先生はPCPSを「大きなイベント」と考えて北国にやってきたものの、意外と北大の救急医はそう考えていない。「薬がだめなら、PCPSでいいんじゃない」的な感じで、非常に患者への措置の対応の速さに目を見張った。そして、最後には体外循環から「離脱」させていく。北大にくる以前には、PCPSから「離脱」できるような症例が少なかったうえに、PCPSは一大イベント的なことでもあった。管理に難渋して、そのまま亡くなっていく患者を多く見届けたという。なおさら小野先生は「集中治療、intensive系が必要だな」と思っていた。

救急の面白さ、醍醐味、やりがい

救急では情報ゼロで死にかけた患者が運ばれてくる。来た患者さんをゆっくり診て、全部検査をして、診断をして治療するという普通の流れの医療行為をしていたら救急では絶対に間に合わない。すばやく診断して、考えて治療していかなくてはならない。
小野先生は「その思考回路が非常に面白い」と口にする。そして「あと、何が来るかわからない面白さもある」と続ける。
もともと小野先生の理想像は先にも書いてあるようにgeneralist。「来た患者を拒まない、というのが僕の医者になるための目標だったので、そういう意味では一番目標にかなっているのが救命救急なのか」
仕事と休みのオンオフのメリハリの良さも指摘する。小野先生は「オフの時には完全に患者さんのことを忘れて、家族サービスができる」という魅力も口にする。主治医制ならば、ゆっくり休んでもいられないという。

救急医療は社会の問題が浮き彫りにされることも

救急医療で、ちょっとした矛盾が起こる場合がある。本人や周囲に治療意欲がない患者を治さなければならないこともある。特に、高齢のお年寄りにはそれが多く見受けられる。中には延命措置の拒否を意思表示されている患者さんもいる。しかし、意識がなくなり、第三者が救急車を呼んで運ばれてくる場合が多いので、懸命な蘇生措置を施した後に、家族から「延命措置をしないで欲しかった」と言われることもある。その逆にドクターカーで向かった先の家で「医者なのに治療しないのか」と逆上されたケースもある。
そのため、何でも診られるということは、ある意味、罪づくり、なことをしている気持ちになるという。蘇生させたものの、そのまま植物状態になった場合、自分たちの医療行為は果たして正しかったのかどうか。小野先生は「そう問いかけられると、僕は正しいとは思えないです。でもね、じゃあ、僕らがそれを確認する術があったのかと言われるとない。救急車を家族が呼んで、ここに運ばれてくれば、治療しないわけにはいかない。だから、これは救急医というか、日本社会の問題だと思う」と話す。
お年寄りが家で倒れる。昔ならば寿命として家で畳の上で死を迎えた。が、今は119番の電話一本で救急搬送されるために、圧倒的に病院で亡くなるお年寄りが多い。家族も気が動顛しているためにやむをえないことだが、どこでどういう死を迎えるかという問題は、救急の現場にいれば、いやというほど見せつけられるのだ。また、年齢でも決して区切れるわけでもない。100歳を過ぎても元気なお年寄りもいれば、70歳をすぎたところで急に老衰するお年寄りもいる。それだけではない。若くても延命治療を望まない人も現在では多くなってきているが、3次指定の救急で運ばれてくる場合は意識がないために、生前意思を伺う訳にもいかない。
小野先生は「超高齢化社会に向かって進んでいる。一方でリビングウイルの意思表示をしている社会では無い。今の日本のルールでは全て救急病院で(蘇生、延命措置を)やらざるを得ない。今後、医療費のことを考えると、社会はアップアップしてくるようになると思います」と問題を投げかける。決して小野先生はそういう社会作りをしていこうと訴えているわけではない。もともと来るものは拒まない医者としての目標なり理想像がある。救急での社会に感じる疑問点を口にしたに過ぎないのだ。

救急医を目指す学生/研修医にひとこと

小野先生の写真

失敗できるのは今しかない。プレシャーもかかるだろうし、自分で考えて治療方針などを立てていくのも救急の醍醐味でもある。
小野先生は「1,2年目は失敗してもいいから何度もやれ。その代わり勉強して、考えてやれと。そして患者さんの迷惑にならないようにやれ。それで失敗した場合は、上は怒るかもしれないけど、罰したり、お前をもう絶対に許さないとか、そんなことにはならない。今、失敗しなかったら(糧も得られずに)3年目になって絶対に恥をかくことになる。3年目ってある程度、できる医者と思われるのだからね。特に、今の救急のメンバーは凄く良くて、今までの救急というイメージとは実は違うんだ、と思って来てもらえればいいね」と話している。