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臨床研修

研修医へのインタビュー - 中野真太郎先生

中野真太郎先生プロフィール

  • 1987年 北海道札幌市生まれ
  • 旭川東高卒業後、北海道大学医学部入学
  • 2013年3月 同大医学部卒業

医者になるかジャーナリストになるか

中野先生の写真

中野先生の父親は現役の外科医。現在、旭川厚生病院副院長であり緩和ケア科主任部長を兼務している。幼い頃から、父親の転勤に伴って北海道内を転々としながら父親の後ろ姿を見て育つうちに、自然と医療への道を志すようになったという。
「小学、中学生時代はほとんど家に帰って来なかったけど、父は活き活きとし楽しそうだったので、子ども心ながら医者になろうと思い立ちました」と中野先生は話す。
北海道大学の医学部を目指すものの一年目は「桜散る」。悔しさをばねに一浪の末に念願がかない医学部に合格した。
大学の入学式では父親は早くから職場の休み希望を出して、息子の晴れ姿を見に来たほど、「僕の合格をすごく喜んでくれました」と中野先生は照れ笑いをする。

そんな中野先生だが、一浪目の滑り止めに医学部ではなくて、早稲田大学政経学部も受けようとしていた。ジャーナリズムにも興味があったからだ。「ジャーナリストという仕事もいいかな」と中野先生は早稲田受験の話を父にしたところ、「医学部が受かって、早稲田に進学をしなかったら、お前のために試験で落ちて入れない人間ができる。それでもいいのか」と、当時の中途半端な気持ちでの早稲田受験に釘をさされたこともあった。
大学時代はボート部で授業前の早朝5時からの練習に励んでいたが、一方でジャーナリズムへの道もまだ頭に思い描いていたため、ジャーナリスト関係で、特に戦場カメラマンの書籍を数多く読んでいた時期があったという。そんな思いを教授に軽い気持ちで話すと「せっかく医学部に入ったのだから、医者への道を志すように」と諭された経験もある。

最初は「いやだなあ」という気持ちだったが、今では「来るならこい」

無事に医学部を卒業して医師免許を得た中野先生は、迷うこと無く初期臨床研修の1年目の場に母校の北海道大学病院を選んだ。消化器内科、皮膚科、産科、精神科、第一・第二内科、麻酔科と研鑽を積んできてから救急の研修に挑んだが、「他科に比べると圧倒的に自分で考えなくてはならない(現場だった)」と感想を口にし、自分で判断、決断する力が身に付いたという。
フライト中の機内で急患が発生し「お医者様がご搭乗しておりましたら…」というアナウンスがあれば手をあげて名乗り出すことも可能だという。
もっとも中野先生は「僕一人だけしか名乗りでなかったら嫌だなとは思いますけど。アナウンスされて5秒くらい待って『はい』と言えますけど」と照れ笑いをする。

たった2ヶ月というべきなのか、それとも2ヶ月も、というべきなのかは研修医それぞれの修錬による違いで感じ方も様々だろうが、いずれにしても急変の現場で名乗り出られる自信を深めた中野先生でも、救急の研修に就いた頃は不安で仕方が無かったという。「救急初日は絶望的な感じでした。あまりにも分からないことが多すぎて…。最初の2−3日は、ここでやっていけるのかなあ」と中野先生は初日の頃を振り返った。
これまでに回ってきた研修先では、たとえ容態が悪くなったとしても、10分や30分そこらで死ぬ人は来なかったが、判断を間違えば今すぐに死ぬかも知れない救急での患者対応には、「胃に穴があくかもしれない」というプレッシャーも感じたという。
実際に研修医一人だけで重要な診断や治療の判断をする訳ではないが、中野先生は少しずつ対処できる範囲を広げ、積極的に自分で判断してくように努めていこうとしたことで、徐々に重圧から逃れていくことができた。
「例えば患者さんのバイタルサインが崩れて、変動があった時に次にどうするか。もちろん困った時には上級医に聞きますけど、まず、自分で考えて次にどうするか。何か薬を使った方が良いのか、機器を使った方がいいのか」などと積極的に自分で考え、学んだことをフィードバックして、そして判断するプロセスを身につけていったという。
手技的なことも救急では、一般病棟での研修と違い、とにかくトライさせてもらえることも多く、「勉強になった」と中野先生は口にする。
救急での研修に入ったばかりの頃、救急で患者が搬送されてくることに「嫌だな」と思っていた中野先生も、研修が終わりに近づいた頃になると逆に、「よし、やるかという感じになりましたね」と目を輝かせた。

印象に残る症例よりも印象に残った患者さん

初期臨床研修に入ったばかりの頃、中野先生は内科で進行がんの患者を診ていたが、その患者が救急で運ばれてきて最期を看取った経験を印象深く話し出した。
「4月、研修に入ったばかりの頃の消化器内科で診ていた患者さんだっただけに、すごく胸に来るものがありました」と中野先生。その頃は、その患者は具合が悪いなりにも、普通に歩いて、普通に食事をしていたという。
その患者との接点はそれだけではなかった。それから半年以上がすぎた冬のある日、第一内科の研修先でもその患者と接することになった。呼吸器系の容態が悪くなって再度、診ることになったためだ。
その患者は中野先生のことをよく覚えていてくれていただけに、「すごく運命的というと言い過ぎかもしれないけど。最期を看取るということを含めて3回、その方と関わらせていただきました」と、感慨深げに言葉が紡がれる。それだけに印象に残ったという。
最期は初療室で、家族と消化器内科の先生が立ち会っての患者との別れの場が設けられた。
末期がんでの心停止状態で運ばれてきただけに、血圧はかなり低かった。強心剤の使用も考えられたが、、、、。数時間から数日のいくばくかの延命は可能ではあったが、「これまで頑張ってきたんだから。このまま眠らせてあげましょう」という担当医の言葉が慰めとなった。一年以上の闘病生活を支える家族も大変な思いもあった。
最期は少しだけ、心臓が動いたが、吐き出した息は二度と吸われることがなかった。

医者は、特に救急医は死を見つめる仕事でもある。中野先生は、「これまでに何十回。普通の人が一生で絶対に見ない数の臨終というものと接してきました。急な臨終ですよね。事故とか、心筋梗塞による突然の心停止とか。死に向き合わなければいけない現場ですね」と伏せ目がちに話す。
そんな中野先生に救急の研修を振り返ってもらい、最初に口にした言葉は「面白かった」で、それから「試練の場というか、修行の場でした」という感想が続いた。
将来の進む先はまだ明確ではないが、アカデミックな分野でのがん治療に興味があるという。そのためにこの4月からは、初期臨床研修2年目の修業先として、江別市立病院の総合診療科で研鑽を積む。「いろいろな力を付けたいので」と中野先生は希望を膨らませる。
総合診療科だけに様々な患者の対応に迫られることになるが、中野先生は「一番ハードな救急を最期にしていたので、この流れでいけばどこでも何とかなるような気がします。今では心肺停止の人が来ると聞いても狼狽しなくなりました」と微笑んだ。